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DAOは組織を消したのか——意思決定の再配置|HashHub Research

画像はShutterstockのライセンス許諾により使用

※本記事は、HashHub Researchの許諾を得てCoinPostに転載しています。 執筆者:ベランダチルボーイ 執筆日:2026年7月3日
DAOは組織を消したのか——意思決定の再配置|HashHub Research

連載「今更聞けないWeb3」第7回

目次

  1. 告白
  2. 組織が担っていた仕事
  3. 責任者のいない学級会
  4. 三つの実験的DAO
  5. 沈黙は外から測れない
  6. 寡頭制の鉄則
  7. おわりに——配置を変えただけだった
  8. 参考文献

告白

DAOについて書くと決めた。

組織を、もう一度ゼロから作り直せるとしたら、どんな形になるか。上下関係を消す。決裁を消す。役員を消す。誰でも参加できて、誰でも提案でき、すべての決定が透明に記録される。意思決定は、多くの場合、トークンの保有量に応じて配分される。理念としては、文句のつけようがない。

DAO——Decentralized Autonomous Organization、分散型自律組織。これが、その構想に与えられた名前だった。

聞いていて、自分は素直に、面白いと思った瞬間がある。組織というものに、ずっと小さな違和感を抱えていたから、その違和感を別の形で解いてくれる装置に見えた。会議が長い。決まったことが、いつの間にか変わっている。誰が決めたかが、後から辿れない。なんとなく決まった、ということになっている。これらが構造的に解消される組織、という言い方には、思春期の頃の自分が信じていたものに近い手触りがあった。

ところが、書こうとすると、どこかで詰まる。

毎回ここで詰まる。同じ場所で、毎回。

詰まる場所が、毎回はっきりしないというのが、いちばん厄介な気がしている。理念の側で詰まっているのか、実装の側で詰まっているのか、それとも、その両方の隙間で詰まっているのか。詰まりの形は、書きながら少しずつ輪郭が見えてくる。書く前には、見えない。

DAOについて書かれた文章を、いくつか読んだ。技術的な解説も、運営の事例も、実装の比較も、たくさんある。だがどれを読んでも、自分が引っかかっている場所には、なかなか触れてくれなかった。引っかかっている場所が、自分でも分かっていなかったからかもしれない。

引っかかりの正体は、たぶん、こういうことだ。DAOの説明を読むと、たいてい、組織から要らないものを取り除いた、という話が出てくる。階層を取り除いた、仲介を取り除いた、不透明さを取り除いた。だが、何かを取り除いたあとに、その場所に何が残っているのかという話は、あまり書かれていない。取り除いたら、その場所が空くだけのはずだ。空いたままにはなっていない。何かが、そこを埋めている。その何かが、いま、自分が見たいものだ。

前回、第6回でDeFiについて書いた。銀行員のいない銀行は、銀行員という人格を消して、代わりに判断を設計の段階に前倒しした。担保率を何パーセントにするか、どの資産を担保とみなすか、どのオラクルを信用するか。コードが動き出す前に、誰かが判断していた。仲介は消えたのではなく、設計者の側に沈殿した。

DAOは、その「判断の前倒し」を、組織そのものに対して行う試みだ。銀行員ではなく、組織そのものの中にいる人間を、まるごと、設計の段階に前倒しする。

白状する。自分はDAOを、一度だけ、自分で組み立てたことがある。

組み立てたといっても、コードを書いたわけではない。一年ほど前、社内Slackで雑談していた。発端は自分だった。DAOって「人間らしさ」の取り扱いで全然イメージが変わりそうだ、と書いた。怠惰DAOと忘却DAO、二つを並べて投げた。投げてから、しばらく放っておいた。

数時間後、社長が、一つ目のDAOの基本設計を投げてきた。ルール、想定される結果、人間らしさの反映、実験の仕方、観察ポイント。社内の業務の合間に書かれたとは思えない密度だった。社長は普段、組織を作る側にいる人間だ。組織を作る側にいる人間が、組織を解体しかねない装置の設計を、業務の合間に書いている。それを書きながら、社長は何を考えていただろうか。

翌朝、編集長が長文で返した。怠惰=Noとは限らない、3パターン取り得る、と論点を整え直してから、決定的な一文を投げた。「DAOの本体は投票ガバナンスじゃない。暴力によらず持続的に状態を変えられること、それ自体が本体だ」と。編集長はさらに踏み込んで、過度な制度的強制は「奪われる前に奪う」を誘発しかねない、とまで書いた。投票の話から、いつのまにか暴動の話になっていた。

その日の夕方、エンジニアが一行で書いた。「無投票=ランダム、棄権=ノーカウント、はどうでしょうか」。

三つ目のDAOは、ここで生まれた。

社長と編集長とエンジニアと自分。普段の業務での役回りは、それぞれの肩書きの通りに動いている。組織を回す者、文章を整える者、コードを書く者、提案を運ぶ者。だが、その日のSlackの中では、誰がどの役回りだったかが、滑らかにずれていた。社長が技術設計を書き、編集長が政治哲学に踏み込み、エンジニアが議論の枠組みを組み替え、自分は問題を投げて、最後に困っていた。

何に困っていたかは、覚えている。「怠惰ゆえの不参加と、熟考した結果として『語らないべきだ』と判断したうえでの沈黙を、外から区別する手段はあるのか」と書いた。一般的な対話としては、たぶん、区別できない。区別できないなら、設計の側で扱いを選ばざるを得ない。だが、扱いを選んだ瞬間に、設計者は、誰かの沈黙の意味を、勝手に書き換えている。

そのときは、面白がっていただけだ。今になって、あれは遊びではなかったと気づく。何の気なしに動かしていたつもりの三つは、組織を作るときに、自分が無意識に置いていた仮定を、外に剥がして見せていた。仮定が表に出てしまえば、もう、見なかったことにはできない。

そして、もう一つ気づいたことがある。あの日Slackで起きていたことは、本稿で書こうとしていることの、入れ子になっていた。普段の役職が一時的に溶けた小集団の中で、組織の決定構造についての思考実験が育っていった。組織を回す者、文章を整える者、コードを書く者の肩書きが滑ってずれた瞬間に、議論が立体化した。自治がうまく機能する共同体の現場には、たぶん、これと似た瞬間がある。そして、その瞬間を再現するために何が要るかを、DAOは、まだ、つかんでいない。

今回は、DAOの夢に一度だけ、本気で乗ってみる。そのあとで、ゆっくりと、何が残ったのかを見る。

組織が担っていた仕事

先に断っておく。

DAOがやったことの中で、おそらく最も本質的な事実は、別にある。匿名の不特定多数が、法人格を介さず、グローバルにインターネット越しに資金を持ち寄り、集合的に運用する組織を、初めて制度として立ち上げた——インターネット以前にも、DAO以前にも、これは不可能だった。会社という形式を取らないと資金を共同で管理できなかったし、会社という形式を取るためには、誰かが法人格の中心に立つ必要があった。DAOは、その「中心が要る」という前提を、一度外した装置だ。

これはとても大きなことだ。国境を越えた数万人が、互いを知らないまま、共通の財布を持って同じ目的のために動く、ということが、人類史上初めて、制度として可能になった。クラウドファンディングでもなく、株式会社でもなく、NPOでもない、第四の組織形式が、ここで立ち上がった。

クラウドファンディングは、お金を集めるだけだ。集めたお金の運用主体は、別にいる。株式会社は、運用主体を立ち上げられるが、法人格と中央の管理機構が要る。NPOも同じだ。インターネットスケールで、匿名の不特定多数から資金を集めて、その資金の運用にも全員が関与できる、という形は、DAO以前には、なかった。BitcoinやEthereumのコア開発者コミュニティが、ある意味でその先駆的な形を示していたが、それを「組織」として明示的に立ち上げる仕組みは、DAOによって初めて整った。これは、組織形式の歴史において、相当に新しい現象だ。

今回扱うのは、その事実そのものではない。その新しい組織が、内側で何をどう決めているのか、という話だ。何を可能にしたかと、何をどう決めているかは、別の話だ。今回は、後者だけを扱う。前者の話は、おそらく、ほかの書き手のほうがうまく書ける。

そもそも、組織はなぜ存在するのか。

Ronald Coase(ロナルド・コース)が遠い昔、ひとつの簡素な答えを出している。組織とは、内部での調整が市場での取引より安く済むときに立ち上がる装置だ、と。ひとつひとつの仕事を市場で外注し続けるには、契約書を書き、相手を探し、価格を交渉し、品質を監視する手間がかかる。これらの手間——取引コスト——を内部化することで、組織は成立してきた。

外注を続けると高くつく仕事は、組織の中に取り込む。組織の中に取り込むと逆に高くつく仕事は、外注する。この二つの境界線が、組織の輪郭を決める。境界線は、技術が変われば動く。電話と郵便が普及したときに動き、コンピューターが普及したときに動き、インターネットが普及したときに動いてきた。動くたびに、組織の形は変わってきた。

スマートコントラクトは、その取引コストを限りなくゼロに近づける道具として登場した。契約は自動執行され、相手はマーケットプレイスにいて、価格は需給で決まり、品質はコードで監視される。Coaseの理屈をそのまま適用するなら、取引コストがゼロに近づいたとき、組織の境界線は、限りなく内側に縮む。組織は、消える方向に動く。

ならば、DAOは「組織の終わり」を告げる装置だったのか。

そう問うと、組織が何を担っていたのかを、もう一度分解する必要が出てくる。組織が動くためには、ざっくり五つの仕事が要る。誰が決めるか、何を基準に決めるか、どう記録するか、どう執行するか、そして、結果に対して誰が責任を負うか。この五つだ。

組織が担っていた仕事の五要素表

図1. 組織が担っていた仕事——五要素表。筆者作成。

五つのうち、四つは別の装置に置き換えられた。だが、最後の一つだけは、置き換える先がなかった。コードは責任を引き受けない。プロトコルも引き受けない。トークン保有者の分散した集合は、誰一人として全体を代表しないから、引き受けようがない。

責任は、消えたのではない。霧散した。

第6回のDeFiでは、銀行の五要素のうち「時間処理」だけが置き換えられず、過剰担保という壮大な迂回が生まれた。第4回のNFTでは、所有の四つの顔ではなく、新たに付け加えられた「履歴」だけが過剰に強化された、片肺の所有形式が残った。DAOの場合は、組織の五つの要素のうち、「責任」だけが置き換え先を失い、組織から滑り落ちた。

毎回、一つだけが取りこぼされる。再配置という言葉を使えば、それは「再配置できなかったもの」だ。そして、その取りこぼされた一つが、その仕組み全体の形を、後から規定する。DeFiは過剰担保の形に縛られ、NFTは履歴偏重の所有形式に縛られ、DAOは責任の不在に縛られる。

Coaseの理屈は、組織を取引コスト削減の装置として説明していた。だが、組織はもう一つ、静かに担っていたものを、彼の理屈は明示していなかった。組織は、責任を集約する装置でもあった。何かが起きたとき、誰かが責任を引き受けるための場所だった。組織の輪郭は、取引コストの最小化点で決まると同時に、責任の引き受け手が立てる範囲でも決まっていた。

責任は、感情の問題ではない。構造の問題だ。何かが起きたとき、誰がその後始末をするのか、誰がその後始末のための資源を動員できるのか、誰がその動員に対して説明を求められるのか。これらの問いに答える者がいなければ、組織は、起きたことを処理できない。処理されないまま、ただ霧散する。

たとえば、会社で何か不祥事が起きたとき、社長は記者会見で頭を下げる。下げた頭は、それ自体としては何の問題解決にもならない。だが、頭を下げた者がいる、ということが、組織の外側から見て、その後始末の責任が誰の手に握られているかを示す。外部のステークホルダーは、その示された手に対して、改善を要求できる。組織の中の人間も、その手の動きに沿って動ける。社長の頭は、構造上の固定点として機能している。

DAOには、その固定点がない。何かが起きても、頭を下げる場所がない。下げる場所がない、ということは、外部から改善を要求する宛先がない、ということでもある。内部から運営を立て直そうとする者にとっても、誰を中心に据えて動けばいいかが、最初から決まっていない。

DAOは、その後者の場所を消した。あるいは、責任を「コードを書いた誰か」の側に、静かに前倒しした。

DAOは会社から社長を消したのではない。社長の席を、投票画面の奥に隠しただけだった。

責任者のいない学級会

責任が霧散しても、誰かが何かを決めなければ、組織は動かない。判断は、どこへ渡されるのか。

投票だ。

ここでDAOを書きながら浮かんでくる風景がある。教師の介入なしに、子供たち自身で議題を決め、議論し、投票する場。日本のほとんどの大人が、子供時代に経験している。学級会だ。

学級会で起きていたことを、いま思い出すと、奇妙な符合がある。

声の大きい少数の子供が、議題を決めた。多くの子供は、何が議論されているかよく分からないまま、手を挙げるか挙げないかを決めた。挙げない子供は、賛成なのか反対なのか、外からはよく分からなかった。「みんなで決めた」ということになっていたが、いくつかの判断は、議論の前から決まっていた。声の大きい子供が議論を引っ張り、議論を引っ張った子供の側に、決定が寄った。手続きとしては民主的だったが、結果は、必ずしもそうではなかった。

教室の後ろの方では、何人かの子供が、議題と関係ない話をしていた。何人かは、机に伏せていた。何人かは、ただ窓の外を見ていた。彼らが議論にどう反応していたのかを、議事録に残す手段はなかった。残さなくても、結果は出た。結果が出てしまえば、それは「みんなで決めたこと」になった。

そして、教室のレイアウト——黒板の位置、机の並び、誰がどこに座るか——を決めたのは、子供たちではなかった。

ここで、Elinor Ostrom(エリノア・オストロム)を呼びたい。彼女は、国家にも市場にも頼らずに、共同体が森林や漁場や灌漑用水を自治してきた現場を、世界中で集めて回った。スイスの山岳村が共同で管理してきた牧草地、ネパールの農民が世代を超えて回してきた灌漑用水、トルコの沿岸漁師が網を入れる順番を自分たちで決めてきた漁場。これらは、国家の制度でも、市場の取引でもなく、共同体内部の自治によって、しばしば数百年単位で機能してきた。

「コモンズの悲劇」という有名な話がある。共同で使う資源は、放っておくと過剰に使い倒されて枯渇する、という話だ。Ostromは、その話が、必ずしも正しくないことを示した。共同体には、共同で使う資源を、共同で守ってきた長い実践がある。彼女が世界中で集めて回ったのは、その実践の現場だった。

実践の現場には、ルールがあった。誰がいつ、どれくらい資源を使えるかを定めるルール。ルールを破った者にどう対処するかを定めるルール。ルール自体をどう変えるかを定めるルール。これらは、外から押し付けられたものではなく、共同体の中で、時間をかけて練り上げられたものだった。練り上げの過程では、何度も話し合いが行われ、揉め事が処理され、合意が更新されてきた。出来上がったルールは、その共同体の文脈に深く根ざしている。だから、ほかの共同体に持っていっても、同じようには機能しない。

Ostromの仕事の重要なところは、共同体の自治は、特定の条件のもとでだけ機能する、ということを明らかにした点にある。条件が揃わなければ、自治は機能しない。条件のことを抜きにして「自治は素晴らしい」と言うのは、彼女の発見を、表面だけなぞった話になる。

自治は、夢ではない。条件次第で、機能する。

ただし、彼女が見つけた「機能する自治」には、揃っているべき条件があった。

自治が機能する条件と二つの実装の対応表

図2. 自治の条件と、二つの実装。筆者作成。

学級会は、これらの条件をほぼ満たさない場で運用されていた。だから自治の練習として機能しても、自治の完成形にはならなかった。

DAOは、その学級会を、大人がもう一度やっている。

しかも、DAOが学級会と決定的に違うのは、参加者の身体性が抜けていることだ。学級会には、隣の席の友達がいて、議論を引っ張る子供の顔が見えて、教師の存在が背後にあった。沈黙している子供がいれば、声の大きい子供にも、それは見えた。後ろの席で内職をしている子供がいれば、それも見えた。完全に把握はできなくても、視野には入っていた。

DAOには、投票画面と、文字で書かれた提案と、画面の向こうにいるかもしれない無数の匿名アカウントだけがある。声の大きい少数は、フォーラムの中に消え、議論の前から決まっていた判断は、トークン分布の中に消える。誰が議論を引っ張ったのかも、誰が黙ったままだったのかも、外から見ているだけでは、ほとんど分からない。

Ostromが集めて回った共同体には、参加者の身体性があった。スイスの山岳村の住人は、互いの顔を知っていた。ネパールの灌漑用水を共同で回してきた農民は、隣の田んぼの持ち主と毎日顔を合わせていた。トルコの漁師は、港で網を入れる順番を巡って、何度も話し合いをしてきた。身体性がある場では、Ostromの示した自治条件は、自然に満たされやすい。

DAOには、身体性がない。だから、Ostromの自治条件を、別の手段で満たさなければならない。コードと、フォーラムと、投票画面と、トークン分布で。それが上手くいっているDAOは、まだ、あまり多くない。

教室のレイアウトを決めた誰か——コードを書いた者、最初の設計を選んだ者、最初のトークン分配を決めた者——は、その後の運用には参加しない。だが、彼らが選んだ設計が、その後の組織の振る舞いを規定する。子供たちは、自分たちで決めたつもりだった。大人たちも、自分たちで決めたつもりだ。

教室のレイアウトは、教室にいる者には見えない。

三つの実験的DAO

ところが、投票という仕組みには、教科書にあまり書かれない問題がある。沈黙だ。

一年前の社内Slackでの雑談に戻る。あのとき、何の気なしに話をしていた三つのDAOを並べる。

三つの実験的DAO(怠惰・忘却・ランダム)の比較表

図3. 三つの実験的DAO。筆者作成。

DAOの設計選択肢は、原理的にはもっと多い。沈黙を「Yes」と読む設計も、棄権を投票数から除外する定足数モデルも、委任(Delegate)システムも、すべて可能だ。だが、ある仮定を真面目に置けば、これらは三つに収斂する。

人間は、自分で決め続けることに耐えられない、という仮定だ。一年前のメモにそう書いていた。

耐えられないなら、誰かが代わりに決める。極限ケースは三つしかない。沈黙を「No」と数えるなら怠惰DAO、提案と投票を期限で失効させるなら忘却DAO、沈黙をランダム化するならランダムDAO。

それぞれを動かしてみる。

怠惰DAOは、保守的な組織になる。何も決まらない。新しい提案は通らない。投票しない多数派の沈黙が、現状を永遠に維持する。提案者は、自分の提案を通すために、沈黙している多数派を起こすか、起きている少数派を口説くか、定足数の壁を乗り越える方法を探す必要がある。どの方法も、コストが高い。だから、ほとんどの提案は、最初から提出されない。

意外なことに、これは現実から遠くない。前回のMakerDAOがそうだった。ガバナンス投票の参加率は提案によって揺れるが、しばしばMKR保有者のごく一部に留まる。ある提案では数パーセント、別の提案でも一桁台で意思決定が確定する場面が、珍しくない。Black Thursdayで危機を救った人間のガバナンスは、平時にはほとんど稼働していない。危機には起き、平時には眠る。怠惰DAOは、ほとんどのDAOの現在の姿だ。

これは、ガバナンスの怠慢ではない。むしろ自然な結果だと考えるべきだと思う。提案を読むには時間がかかる。背景文脈を理解するには、過去のフォーラム議論を追う必要がある。技術的な提案であれば、コードの理解も求められる。そこまでのコストを払って投票しても、自分一人の票が結果を変える確率は、ほとんどゼロだ。経済学者なら「合理的無知」と呼ぶ。投票しないことは、参加者にとって、しばしば合理的な選択だ。怠惰DAOの設計は、その合理的無知を、構造の前提として組み込んでいる。

忘却DAOは、変化を強制する組織になる。慣性が働かない。組織は毎期、自分自身を作り直す。誰も覚えていないルールは消える。これも、現実から遠くない。多くの組織が、誰も理由を覚えていない規則を、しかし誰も廃止できないまま引きずっている。忘却DAOは、その「引きずり」を構造的に削ぐ。

代償は、二つある。一つは、組織が毎期、自分自身を立ち上げ直す疲労に晒されること。もう一つは、長期にわたる継続的なコミットメントが、構造的に難しくなること。たとえば、何年もかけて積み上げる必要のあるプロジェクトは、忘却DAOでは、運営が難しい。記憶を構造的に削ぐ組織は、記憶を要する仕事には向かない。

ランダムDAOは、棄権の概念を消す。沈黙が、コインを投げるのと等価になる。参加者は、自分の沈黙が結果に与える影響を予測できないから、強制的に意志を表明させられる。沈黙という選択肢が、構造的に奪われる。

実際に実装したい組織はあまり想像できないが、思考実験としては、ほかの二つを浮かび上がらせるための対照群として機能する。怠惰DAOは沈黙を一つの方向に寄せ、忘却DAOは沈黙を時間で打ち切り、ランダムDAOは沈黙そのものを意味のないものに変える。三つを並べると、沈黙が、設計次第で何にでもなり得ることが見えてくる。

三つを並べると、奇妙なことに気づく。同じ沈黙が、三つの組織で、三つの異なる結果を生む。同じ参加者の同じ無投票が、設計次第で、賛成にも、反対にも、消滅にも変質する。沈黙はもう、参加者の側にある属性ではない。設計者の側にある変数だ。

DAOの意思決定は、参加者の意志を集約する装置ではない。参加者の沈黙を、設計者の意図に従って解釈する装置だ。

沈黙は外から測れない

第2回で扱ったThe DAO事件は、この構造が立ち上がった最初の場面だった。コードに従って動くはずのファンドが、ハッキングで資金が抜かれた直後に、Ethereum本体のハードフォークという形で書き換えられた。コードは絶対だったはずだ。だが、危機のときに、コードの上位にいる誰かが、コードを書き換えた。書き換えた「誰か」は、運用の外側にいた。

「コードは法である(Code is Law)」という言い方は、当時、Ethereumコミュニティの中でも、外でも、繰り返し使われていた。コードに書かれた通りに動く、それが分散型システムの理念だ、と。だが、The DAO事件は、その理念が、危機の前では脆いものであることを示した。資金が抜かれた金額が、Ethereum全体の流通量の一定割合を超えると、コミュニティは、コードを書き換えるという選択を取った。書き換えに反対した一部のメンバーは、もとのチェーンに残り、それがEthereum Classicとなって、いまも存在している。

その「誰か」が誰だったのかは、未だに、すっきりとは整理されていない。コア開発者だったのか、初期のトークン保有者だったのか、Ethereum Foundation だったのか、それともコミュニティ全体だったのか。事後的にハードフォークを支持した側の人々は、自分たちが「決めた」と思っているかもしれない。だが、決めたという感覚と、決定の構造的な所在は、別の話だ。決定は、起きた。決めた主体は、特定されないまま、運用は続いた。

決めた主体が特定されない、ということは、その判断の意味が、どこにも明示的に書かれない、ということでもある。判断の意味は、判断を下した者の中にしか存在しない。だが、判断を下した者が特定されない以上、その意味は、外には取り出せない。

同じことが、もっと日常的な単位で、DAOの投票画面の中で繰り返されている。

ある参加者が、ある提案に対して、何の投票もしないとき、それは何を意味するのか。賛成なのか、反対なのか、判断保留なのか、提案を読んでいないのか、忙しくて忘れているのか、知っているが態度を表明する気がないのか。あるいは、最初から関心がないのか。

外から見て、これらは区別できない。

投票画面に残るのは、YesでもNoでもなく、空白だけだ。だが空白には、理由が書かれていない。

これは情報が足りないからではない。コードを改良しても解決しない。投票後にアンケートを取っても、答えが正直である保証はない。沈黙の意味は、本人の中だけにあって、外に取り出せない。だから、外部から原理的に観測できない。

身体性のある場では、この問題はある程度緩和される。学級会では、教師は、沈黙している子供の表情を見ることができた。表情から、その子供がいま何を考えているかを、完全にではないが、ある程度推測できた。共同体には、互いの沈黙を読み解く長い経験の蓄積があった。Ostromが見つけた「機能する自治」の現場には、その読み解きの能力が、暗黙のうちに前提されていた。DAOには、その能力を担う者がいない。コードは、沈黙を、表情なしで処理しなければならない。

技術ではどうにもならない種類の問題というのが、世の中にはある。これは、そのうちの一つだ。

Ludwig Wittgenstein(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン)の『論理哲学論考』の最後の命題は、こう書かれている。

語りえぬものについては、沈黙しなければならない。

『論理哲学論考』は、世界を言語で写し取れる範囲と、写し取れない範囲を、厳密に分けようとした本だ。語れるものは、明晰に語れ。語れないものは、語ろうとするな。この最後の命題は、本全体の結論として置かれている。沈黙は、ここでは、語りえないものに対する、論理的に正しい態度として扱われている。

ここまでなら、沈黙は、語る者の良識として、明晰に位置付けられる。投票画面の空白も、語りえないものへの態度として、原理的には位置付け得る。

ところが、ここで奇妙なことが起きる。

『論理哲学論考』を書いた Wittgenstein は、その後、自分の書いたことを、自分で覆した。後期 Wittgenstein と呼ばれる時期の彼は、『哲学探究』というかたちで、前期の自分を、内側から更新する仕事をしている。語りえぬものについて沈黙せよ、と書いた者が、その「語りうるものと、語りえぬものを、明晰に分けられる」という前提そのものを、後から疑い直した。Wittgenstein 自身が、Wittgenstein を消そうとした、と言ってもいい。

DAOが「組織を消したように見えて、消えていなかった」のと、構造はおそらく似ている。前期で立てた切れ目は、後期で消されるのではなく、別の場所に再配置される。沈黙の問題も、後期の側から見ると、別の場所に立ち上がる。

後期 Wittgenstein が立ち上げた論点のひとつに、私的言語論証と呼ばれるものがある。『哲学探究』の二百四十三節以降で、彼が周到に進めていく議論だ。乱暴に要約してしまえば、こうなる。

自分だけにしか分からない感覚を、自分だけに分かる記号で書き留めたとしよう。たとえば、特定の感覚が起きたときに「S」と書く、という個人的な約束を結ぶ。今日、何かを感じて「S」と書く。一週間後、また何かを感じて「S」と書く。

このとき、自分は、二回の「S」が、本当に同じ感覚を指していると、どうやって確かめられるのか。

確かめる手段は、ない。比較するための公の規準が、外側にないからだ。同じだと感じる、という感じ自体も、その感じが正しいことを保証してくれない。前回の「S」と今回の「S」が、本当に同じものを指していると、本人にも、確定できない。

Wittgenstein がここで示そうとしているのは、意味は、本人の頭の中に閉じた状態では、成立しない、ということだ。意味は、共同体の中での実践、規則の運用、誤りの修正、こういったものに支えられて、はじめて立ち上がる。本人だけの記号は、意味を持てない。意味の場所は、内側ではなく、間にある。

これは抽象的な思考実験のように見えて、実は、自分の沈黙について自分が言えることの限界を、別の角度から示しているように思える。

ここまで来ると、沈黙について、もう一段書き直さなければならなくなる。

「沈黙の意味は、本人の中だけにあって、外に取り出せない」と書いた。だが、後期 Wittgenstein にしたがえば、その書き方は、半分しか正しくない。

沈黙の意味は、本人の中にも、確かには存在しない。

投票しなかった参加者は、自分がなぜ投票しなかったかを、自分でも明晰には知らない場合がある。忙しかったのか、関心がなかったのか、迷っていたのか、提案を読んだ末に判断を保留したのか。これらの区別は、自分の中ですら、しばしば曖昧なまま放置されている。本人が、自分の沈黙の意味を、後から振り返って「あれは判断保留だった」と物語ることはできる。だが、その物語が、沈黙したその瞬間の自分の状態を、正確に写し取っているという保証は、ない。

意味は、間にしかない。間にあるものは、間を構成する誰かが書き留めなければ、消える。DAOには、その「間」を構成する者がいない。投票画面と、画面の向こうにいるかもしれない無数の匿名アカウントの間には、互いの沈黙を読み解く実践の蓄積が、ない。

後期Wittgenstein には、もう一つ、DAOの側に直接刺さる論点がある。『哲学探究』の二百一節あたりで提示される、規則遵守のパラドックスと呼ばれる議論だ。

ある規則を有限の文字数で書き下したとき、その規則を「正しく」適用するとはどういうことか。Wittgenstein の答えはこうだ。規則の意味は、規則のテキストの内側には、書ききれない。規則がどう適用されるかは、規則を運用する者たちの実践のなかで、その都度、確定する。同じ規則のテキストから、状況次第で、まったく異なる適用が出てくる。それは規則の不備ではなく、規則というものの、もともとの性格だ。

スマートコントラクトは、規則をコードのテキストとして書ききれる、という想定の上に立っている。書ききれる、と仮定するからこそ、自動執行が可能になる。だが、規則の意味が、テキストの外側にある実践のなかでしか確定しないとすれば、自動執行は、本当は、何を執行しているのか。誰の解釈を、誰の実践なしに、執行しているのか。

設計者は、沈黙の解釈だけを、先に書き下しているのではなかった。規則そのものの解釈も、先に書き下している。書き下した瞬間に、特定の実践共同体の人間観が、コードに密輸入される。

怠惰DAOの設計者は、人間を、放っておくと何も決めない存在として見ている。だから沈黙を「現状維持の票」として扱う。忘却DAOの設計者は、人間を、ルールを忘れる存在として見ている。だから提案にも投票にも期限を切る。ランダムDAOの設計者は、人間の沈黙と決断の区別を諦めている。だから沈黙を、確率の中に溶かす。

三人の設計者は、それぞれの人間観のもとで、それぞれ違う組織を生み出した。三人とも、自分が選んだのは「沈黙の扱い」という技術的な細部だと思っているかもしれない。だが、その細部の選択が、組織全体の振る舞いを決める。技術的な細部は、技術的な細部ではなかった。人間観の表明だった。

設計者は、沈黙の意味を知らない。本人にすら、確かには分からないものを、設計者が外から書ききれるはずがない。知らないまま、沈黙をどう扱うかを決めなければならない。決めた瞬間に、人間観が一つ、コードに埋め込まれる。設計者本人が、自分の人間観を意識的に選んでいる場合もあるし、意識しないまま埋め込んでいる場合もある。どちらの場合も、結果は同じだ。組織が、その人間観のもとで動き出す。

設計者は、自分が沈黙をどう解釈するかを選んだ瞬間、特定の人間観を組織に密輸入する。密輸入された人間観は、コードの中で実行され、参加者の沈黙を、設計者の意図に従って、絶えず解釈し続ける。本人が語れないものを、他人が外から書き換えている。

Code is Law という標語が指していたのは、コードがルールを実行するということだった。だが、ルールの意味が実践共同体の中でしか確定しないなら、コードが実行しているのは、ルールそのものではない。設計者が先に固定した、ルールの特定の解釈だ。

では、その「間」を、現実には誰が作っているのか。全員ではない。いつも、少数だ。

寡頭制の鉄則

では、その設計者は、誰か。

百年ほど前に、Robert Michels(ロベルト・ミヘルス)という社会学者がいた。彼は、当時のヨーロッパで最も民主的だと言われていたドイツ社会民主党を、「組織」として観察した。結論はあまりに冷たかった。

組織を作るかぎり、必ず少数による支配が立ち上がる。

これを彼は寡頭制の鉄則と呼んだ。理由は単純で、組織が動くためには、誰かが日常的な運営を担う必要がある。日常を担うには、時間と、知識と、組織内の人間関係への精通が要る。これらを揃えられる者は、ごく一部だ。

Michelsの観察した社会民主党は、理念としては労働者全員の参加を掲げていた。だが現実には、党の運営は職業的な少数の活動家に集中し、残りの党員は、その少数が立案した方針を、形式的な投票で追認するだけの存在になっていった。理念を裏切ったのではない。理念を真面目に運用すると、構造的にそうなる、というのが彼の発見だった。

彼の言い方を借りれば、組織を作るとは、つまり、少数の運営者と多数の被運営者を生み出すことだ。被運営者が運営者を選ぶ仕組みを民主的にしても、運営の現場で発生する細々とした判断は、被運営者には追えない。追えないから、結局、運営者の手に委ねられる。委ねられた運営者は、自分の判断で組織を動かす。動かされた組織が、被運営者にとって望ましい方向に動いているかどうかは、被運営者には、判定する手段がない。

しかも、運営者の側は、運営を続けるうちに、運営に必要な技能と知識と人脈を、さらに蓄積していく。蓄積が進むほど、その運営者を別の人間で置き換えるコストが上がる。だから、運営者は、構造的に交代しにくくなる。交代しないまま、運営の経験が、さらに蓄積される。寡頭制は、こうして時間とともに固まっていく。Michelsの結論が冷たかったのは、彼が「最も民主的だと言われていた組織」を観察した結果として、この結論に至ったからだ。理念の純度が高い組織ほど、この鉄則は、純粋な形で現れる。

DAOで設計を理解できる者は、コードを読める者、ガバナンスフォーラムを継続的に追える者、提案文書を精読する時間がある者、影響力を持つだけのトークン保有量がある者だ。これらの条件を満たす者は、ごく一部だ。

その一部が、自分の票が設計の中でどう扱われるかを知っている。だから自分の票を最適に運用できる。怠惰な多数派は、設計を理解しない。だから、自分の沈黙が、設計者にどう解釈されるかを知らない。

結果、設計を理解する強者が、設計を理解しない多数派の沈黙を、自分の有利に運用する。

「分散」「民主化」「平等な参加」を理念とするDAOは、構造的に、強者の集権を生む。

しかも、現代のDAOは、この非対称をさらに加速する仕組みを持っている。委任(Delegate)だ。怠惰な多数派は、自分の票を「詳しい誰か」に預けることで、参加のコストを下げる。そして詳しい誰かが、構造的に集権化を完成させる。寡頭制の鉄則が、自発的な委任という現代的な顔をして、コードの中で再演される。

委任は、DAOの世界では、しばしば「Delegate」と呼ばれる肩書きを持った個人や法人によって受け止められる。大手のガバナンス・トークン保有者は、Delegateとして登録され、フォーラムで意見を表明し、ほかの保有者からの委任を集める。委任は、信頼の表明として機能する。表明された信頼が一定量を超えると、Delegateは、事実上の意思決定者になる。

CompoundやUniswap、Aaveといった主要なDeFiプロトコルのガバナンスでは、上位のDelegateが、数百万トークン分の委任を背負って投票に臨んでいる。彼らの一票で、プロトコルの命運に関わる決定が動く場面は、珍しくない。Delegateには、有名な投資ファンドが名を連ねている場合もあれば、活動的な個人投資家がいる場合もあれば、大学の研究機関が運営している場合もある。誰がDelegateとして登録できるかには、原則として制限がない。だが、実際に大量の委任を集められる者は、ごく一部だ。集めるには、フォーラムでの可視性と、過去の投票履歴の蓄積と、コミュニティからの信頼が要る。これらを揃えられる者は、初期から関与している少数か、専門性を売りにしている専業のガバナンス参加者に限られる。

選挙で選ばれているわけではない。任期もない。罷免の手続きも、整っていない場合が多い。だが、彼らの一票は、数百人分、数千人分の沈黙を背負った一票として、設計の中で動く。

奇妙な構造だと思う。委任を受けるDelegateの側は、自分が委任を集めていることを知っている。委任を出した側は、自分の票が誰の手元にあるかを知っているとは限らない。設定したまま忘れている場合も多い。そして、その忘れられた委任が、累積して、ガバナンスの結果を決める。

Michelsが見たら、多分「またか」とだけ書く。

おわりに——配置を変えただけだった

DAOが再配置したのは、組織と意思決定の構造だった。

会社から人間を消し、コードに判断を任せた。だが、コードを書く者は、消えなかった。設計者は、運用の外側にいるが、いないわけではない。彼らは、教室のレイアウトを決めることで、議論の枠組みを設計している。

組織は、消えなかった。設計者の机の上に、沈殿しただけだった。

そして書きながら、自分にも見覚えのある光景だと気づく。

自分も、過去に、いくつかの組織で、声の大きい少数の側にいたり、無投票の沈黙する側にいたり、設計を理解しないまま手を挙げていたりした。役員会で発言しないまま議事録に名前が載っていたこともあるし、自分が設計した会議体で、自分が想定していなかった結論が出るのを、不思議な気持ちで眺めていたこともある。誰がこの結論を出したのか、と問い直そうとして、自分自身も、その結論を出した一人だったことに気づいて、止めたこともある。

自分が黙っていたとき、その沈黙は、その場にいた誰かによって、必ず何かに解釈されていた。賛成と解釈された場面もあれば、反対と解釈された場面もあり、無関心と解釈された場面もある。自分は、自分の沈黙が解釈されることに、ほとんどの場面で気づいていなかった。気づいていなかったから、解釈を訂正することもなかった。DAOで起きていることは、その日常的な解釈の運用が、コードとして固定された姿だ。

一年前にDAO遊びをしていたとき、自分が遊んでいるつもりだったのは、自分が知っている学級会の構造そのものだった。学級会と、社内の会議体と、DAO。三つは、ほとんど同じ構造を持っている。違うのは、参加者の身体性が抜けているかどうかと、設計者が事後的に介入できるかどうかだけだ。学級会では教師が介入できた。社内の会議体では、上司や経営者が介入できた。DAOでは、設計者が、コードを書き換えるという形でしか介入できない。

本稿を書いていて、今までと違う種類の詰まり方をした。DAOが再配置したのは、組織であり、組織を組織として動かしてきた仕組みそのものだった。仕組みを取り出して、別の素材で作り直すと、もとの仕組みの輪郭が、いままで見えていなかった形で浮かび上がる。組織の中で当たり前に動いていた「責任の引き受け手」「判断の継続性」「沈黙の解釈」が、別の素材に乗せ替えられた瞬間に、別の形になる。乗せ替えてみて初めて、もとの組織の中で、それらがどう動いていたかが見える。

連載のここまでで何度も書いてきたが、再配置は、ものを動かすだけではない。動かす過程で、もともとそこにあったものの輪郭を、こちら側に見せてくれる。価値、信用、決済、所有、請求権、仲介。それぞれの回で、再配置されたあとに残ったものを見ながら、もとの形を逆算してきた。DAOの場合、残ったものは、責任の不在と、設計者の不可視性と、沈黙の解釈装置だった。逆算すると、組織がもともと担っていたのは、責任の集約と、設計者が運用の中にいる構造と、沈黙を共同体が読み解く力だった、ということになる。

DAOは、新しい組織形態ではない。古い組織形態の中にあった、ある特定の側面——責任者の不在における意思決定——を、コードで純粋に取り出した装置だ。純粋に取り出したからこそ、見える形がある。組織から人間の恣意を取り除こうとすると、その「取り除いた」という事実そのものが、新しい恣意を生む。

全員が参加できる組織では、たいてい、参加し続けられる人間だけが支配する。

これは、DAOの欠陥ではない。組織を作るときに、人間が無意識に置いていた仮定が、コードに移植された結果だ。コードは仮定を消さない。仮定を、別の形で再演する。

次回はTrustless(トラストレス)を扱う。DAOが「組織」から人間を消そうとした試みだとすれば、Trustlessは「信頼」そのものから人間を消そうとする試みだ。だが、ここまで来れば、見えてきていることがある。信頼もまた、消えるものではなさそうだ、ということが。

詰まったまま、先に進む。

参考文献

  • Ronald Coase「企業の本質」(1937年)
  • Elinor Ostrom『コモンズのガバナンス』(1990年)
  • Robert Michels『現代民主主義における政党の社会学』(1911年)
  • Ludwig Wittgenstein『論理哲学論考』(1922年)
  • Ludwig Wittgenstein『哲学探究』(1953年)

連載「今更聞けないWeb3」第7回 / 全10回予定

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